Critique

佐藤 懐智 (アニメーション監督・侍と将軍(リックアンドモーティ))等

永らくTV「必殺シリーズ」のファンを続けているが、特に印象に残っている事の一つが組紐屋の竜こと京本政樹氏の存在。子供の頃、初めて彼が演じる必殺シリーズのキャラクターのビジュアルに触れたのは、今でも現存する浅草のレコード屋に貼ってあった、氏が担当する番組の挿入歌の「哀しみ色の・・・」プロモーションポスターだった。濃密な昭和感(昭和なのだが)漂う古ぼけた店内に、総髪の新加入キャラクターに扮して陰影の効いた強い照明で顔半分を浮かび上がらせた京本氏を見た時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。

「必殺シリーズ」は映像でありながら“劇画の再現”を目指していたフシもある作品だ。これは1970年代初期のトレンドでもあったと思うのだが、要は往来の牧歌的なデフォルメの「漫画」から、当時の国内外の映画のムードを取り入れ、より写実的で暴力描写もビビッドになったリアル志向の「劇画」がコミック表現の主流になった時期に、今度は映画人が逆輸入的に映像でその劇画表現を模索し始めたのだ。
必殺は特にその傾向が強く、カタカナのオノマトペでそのまま再現できてしまいそうなカリカチュア的な効果音、レントゲン映像やアニメーションのインサート等々、当時の言葉で言う所の「マンガチック」な表現やアプローチが随所に見られる。そして特にそれを強調したのが極端なクローズアップや凝った構図、過剰に陰影を効かせて非現実的な雰囲気を醸し出した撮影や照明による総体的な画作りの部分で、この空間に立った出演俳優達も又「劇画世界の住人」として変貌を果たしていた様に思う。
数多くの名優が必殺の洗礼を受けて「劇画化」されてきた中、シリーズの後半「必殺仕事人Ⅴ」に登場したのが京本氏扮する「組紐屋の竜」と、その相棒の村上弘明氏演じる「花屋の政」である。
美醜の基準は人それぞれではあるが、ことこの二人の顔立ちの造形は美男という言葉以外に表現のしようがないほど正統であり、そこに必殺独自の劇画的美意識の強い撮影、照明班のノウハウ、演出が重なる事で「必殺仕事人Ⅴ」はそれまで追求されてきたビジュアリティを極めた集大成とも言えるシーズンになった。

その後京本氏は数シリーズでレギュラーを務めた後に必殺を降板し、シリーズ自体も終了、メインの俳優達やスタッフも物故する人が増え、我々ファンを残して世はうつろいでいくのだが、40年近く経った現在、ここにきて京本氏をモチーフに高度な美男画を追求するNuiという人物が現れた。本編映像と当時の雑誌の切り抜き等々、決して豊富とは言えない資料を基に京本氏の姿を
執拗とも言える筆致でリアルに再現、そして絢爛に誇張されていくNui氏の耽美な世界観。

リアルタイムで必殺に触れていない世代の彼女が、なぜあの時代の俳優やカルチャーにそこまで入れ込むのか本当の所は定かではない。確かに必殺の再放送は各地で継続し、京本氏は驚異的な若々しさで現在もメディアに登場している。彼女達の世代だと音楽界隈の所謂「ビジュアル系」のカルチャーに触れただろうか。その源流にはイギリスのボーイ・ジョージ等のニューロマンティックがあり(更にその起源には歌舞伎のメイクを自己流にアレンジして世に出たデヴィッド・ボウイの存在がある)京本氏の竜のビジュアルは時期的にその海外のニューロマのトレンド時期に重なって後押しがあったのは明白だが、彼のメイク自体は師匠である大川橋蔵の歌舞伎、時代劇映画の手法の直伝でもある。それらのさまざま「線」が強烈な「点」となって現在を生きるNui氏の感性にクリエイションの楔を打ち込んだのかもしれない。

いかに存命中であっても、その人の過去、若かりし頃に撮られた写真や映像は、ある種の「亡霊」なのではと思う事がある。京本氏は今でも元気に、しかも驚異的な若々しさでメディアで活動しているが、それでも「あの時の彼」はもうこの世にはいない。
Nui氏は京本氏をモチーフとして描くというより、そのモチーフに取り憑かれた巫女の様にも思える。言わば降霊術とでもいうべき集中力で彼女により呼び出され、又は生み出される京本政樹(達)は時空を超えてあの昭和のレコード店で感じた衝撃を、現在の自分にフラッシュバックさせる。「美の追求」の前には時の流れなど意味を成さないのだ。

2021年12月2日